第18回全日本大学ディベート選手権大会論題解説
―「日本は死刑を廃止すべきである」のか⁉
今年12月8日、9日に開催される第18回全日本大学ディベート選手権大会の論題は「日本は死刑を廃止すべきである」というものです。死刑廃止を巡る議論はディベートにおける古典論題であり、社会人も参加する大規模大会であるJDA大会でも2007年秋季論題で採用されており(今年のJDA秋季論題も同様です)、何を隠そう私も2007年に死刑論題で大会に出場しています。
死刑廃止論題は、比較的イメージしやすい取っつきやすさがありながら、刑事司法の現状や刑罰の効果に関する緻密な事実分析に加え、刑罰の価値や犯罪者の人権をどう考えるかという価値的な分析が求められ、高度な議論に耐える論題となっています。選手としても、議論の構想やスピーチの技術が問われる意味で取り組み甲斐があり、聞き手からすれば、ともすれば印象論で考えがちなテーマについて、深く検討された精緻な議論を聞くことができ、考えるところの多い試合が楽しめることが期待できる論題だと言えます。
以下では、主に予想される議論について、議論の見どころ、考えどころを簡単に紹介いたします。
死刑の人道性
死刑の廃止を訴える主な根拠は、生命を奪う死刑という刑罰が非人道的である、というものです。日本では絞首刑が採用されており、これ自体が残虐かどうかという議論もあり得ますが、より本質的には、犯罪者であるとしても生命が奪われてよいのか、ということが疑問として提起されます。
世界的には、人道的見地から、国家であっても犯罪者の生命を奪うことはできないという批判が強いところですが、死刑を正当化する立場からは「生命権は本当に絶対的保護を受けるべきなのか」といった疑問や、「死刑の代替として想定される長期の身体拘束はより人道的だと言ってよいのか」「他人の生命権をはく奪した犯罪者に対しても生命権が保障されるのか」「むしろ加害者に死刑を科さないことは被害者の生命権を低く見ることにつながり相当でないケースも存在するのではないか」といった反論があり得ます。人の生命とは何か、刑罰はなぜ正当化されるのかといった難しいテーマをどうやって議論していくのか、思考の深さが問われるところです。
死刑は犯罪を抑止するのか
刑罰の目的として、威嚇効果によって犯罪を防ぐ「抑止効果」があるのだという説明がされます。死刑についても、死への恐怖から高い抑止効果があるとの主張が死刑存置論者からされているところです。
この点については、死刑を廃止した国の観察や、死刑廃止国と死刑存置国の比較等からなる実証分析が多数存在しています。近時の研究では、直感的なイメージに反して、死刑に特別な抑止効果はないという分析も見られるようであり、最新の研究成果について選手の議論が期待されるところです。
実証分析とは別に、そもそも死刑という刑罰に特別な抑止効果があるとすれば何故なのか、ということも気になるところです。古くはチェーザレ・ベッカリーアが『犯罪と刑罰』において、刑の恐ろしさは刑の長さによるものであり、死刑より終身刑――現代の刑事処遇よりかなり「残虐」なものが想定されていますが――のほうが抑止力は強いと論じているように、他の刑罰でも十分抑止力があるという批判は強力ですが、死を恐れる人間の本能に由来する強い抑止力があるという議論にも頷けるところがあります。死刑について実際の犯罪者がどう考えているのか、恐ろしい刑罰は犯罪者にどのような影響を与えるのか、そもそも犯罪を犯そうとするものにとって刑罰はどのように捉えられているのか、といった分析を踏まえた、説得的な議論が求められそうです。
冤罪と死刑
刑事司法の課題として、無実の者が刑罰に服するという冤罪の問題があります。裁判官も人である以上、誤りは避けられず、ましてや現代の刑事司法では判断を誤らせる様々な問題があるという事実が、冤罪を晴らす機会を奪い、かつ、無実の者に文字通り致命的な権利侵害を生じさせかねない死刑を否定すべき理由として強固に主張されています。
この問題を論じるに当たっては、そもそも冤罪を生じさせるという刑事司法の実情がどのようなものであるのかについて、精緻な分析が求められるところです。日本においては、死刑相当犯罪は裁判員裁判の対象となっているため、裁判員による判断の在り様についても分析の範囲に入ってくるでしょう。また、特に否定側からは、冤罪という刑事司法の問題は死刑という刑罰の存廃と直ちに関係しないのではないか、といった指摘が考えられるところです。
国民や被害者遺族の感情と死刑
死刑存廃を論じる中では、国民の死刑に対する支持の状況や、被害者遺族の感情を慮って死刑を存続すべしとの主張がされることもあります。最近ではオウム真理教に関連する一連の死刑執行が話題になりましたが、社会的問題となった事件に対して死刑という手段を取れなくなることが果たして妥当なのか、といった考え方もできるかもしれません。
もっとも、国民が求めているから、被害者遺族が求めているから、といった理由で、犯罪者の人権を奪うことが正当化できるという考え方は、そのままでは説得力を欠くことが否めません。高名な哲学者であるハンナ・アーレントは、ホロコーストに関する罪を問われたアイヒマンの死刑を支持する理由として、ユダヤ人を拒絶したアイヒマンとともに地球上に生きたいと願う者がいないということを挙げていますが(『イェルサレムのアイヒマン 悪の陳腐さについての報告』)、アイヒマンがユダヤ人を虐殺した理由も、ユダヤ人と同じ地球上に生きたくないという思いによるものであって、その「支持」が身勝手なものであるかどうかは、勝者が決めるものでしかありません。国民の声、被害者遺族の声――そもそも遺族なき被害者もいるでしょう――が何故刑罰を正当化するのか、それは本当に許されてよいのかということは、刑罰の存在意義や、刑罰が許されるべき根拠に照らして、慎重に検証されるべき問題ですが、ディベーターがそれを乗り越えて、ハンナ・アーレントを超越した説得的な議論を展開する可能性にも注目したいところです。
現行の死刑制度に対する対案
死刑を擁護する否定側の立場は、現状の制度をそのまま維持するということだけでなく、死刑は維持しつつその対象を変更するといった、新しい死刑制度を提案することも含むものです。このような「対案」を、カウンタープラン(Counterplan)と呼びます。
例えば、死刑制度自体は肯定すべきとしても現在の死刑対象犯罪は広すぎると考えれば、死刑となる対象犯罪を絞ったり、複数人殺害した場合にのみ死刑を適用したりするよう法改正を行うといった提案をすることが考えられます。逆に、死刑をもって処罰されるべき犯罪はより多い、あるいは抑止の観点から死刑執行を増加させるべきという立場から、死刑対象犯罪の増加や、死刑執行の停止を認めないようにすべきという提案を行うこともできます。
否定側がこのような提案を行う場合、かかる提案によれば肯定側の主張する死刑廃止のメリットは享受できる(換言すれば肯定側の指摘する問題点は解消される)ということの説明や、提案を前提とすれば死刑存置に意義があり、廃止には大きなデメリットが伴うといった説明がされる必要があります。何となくよさそうな提案、というだけで評価されることはないということです。また、あまりに死刑の対象範囲を絞るような場合、それは実質的には死刑廃止の立場を取るものではないかという批判を受けることもあり得るでしょう。
以上のとおり、難しい論点を多々含む論題ですが、我々が生きる社会の秩序を維持するためのルールについて考えるきっかけとして、また、事実を踏まえつつ理念や価値に立脚した議論を展開する力を養う好個の素材として、議論を深められることを期待しています。
(全日本ディベート連盟理事 天白達也)