皆さんこんにちは。NPO法人全日本ディベート連盟(CoDA)理事の佐久間です。本日は、このCoDA PRESS開設のおしらせとして投稿しています!
「ディベートの普及と発展とを通じて社会に貢献する」
これがホームページに記載した私たちCoDAのミッションですが、さらにその先には、ディベートの枠にとどまらない「議論文化」そのものの普及という目的があります。「ディベート」という言葉が物珍しさを失った今日、私たちCoDAの理事の中でも、様々な角度から新しいアプローチを試みていく必要があると認識し、日々活動を行っています。
こうした私たちの考え方を、より多くの方に知っていただくにはどうしたらよいか。そうした問題意識のもと、このCoDA PRESSは開設されました。およそ月に1度のペースでCoDAの理事が投稿を行い、ディベートに関するそれぞれの考え方や、CoDAのイベントに参加してくださる方々へのメッセージなどを発信します。是非今後もチェックしてみてください!
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初回である今回は、「議論文化」って何だろう、ということについて、私個人が考えたことを書かせていただこうと思います。
このことを考えるとき、私はよく明治時代の中江兆民という思想家の作品、『三酔人経綸問答』を思い出します。
この作品は、議論好きの「南海先生」と、彼の家に訪れた「紳士君」「豪傑君」という真っ向から対立する考えを持つ2人の客が繰り広げる議論を描いたもの。2人の客が酒を飲みながら火花を散らすように議論を展開し、そして南海先生が両者を聞いた上で、「南海先生胡麻化せり」と題した章で一つの結論を下す、という構成です。
そのさまは、まさに肯定側と否定側の論戦をジャッジが評価する競技ディベートそのもの。ただし、明確に勝敗がつくのではなく、南海先生の結論は現実主義的で、まさに「ごまかす」ような歯切れの悪いものとなっています。そして、「いやしくも国家百年の大計を論ずるようなばあいには、奇抜を看板にし、新しさを売物にして痛快がるというようなことが、どうしてできましょうか」――南海先生は最後に、意思決定において求められる慎重さを説くのです。
この「歯切れの悪さ」こそ、ディベートで真に学ぶべきもの――「議論文化」なのではないか。私はそんなふうに思います。どんな議論にも、つぶさに検証がなされ、ときに痛烈な反駁がなされる。それを受けて、より良い議論を考える。そんなプロセスは、反対意見への寛容を忘れず、答えのない問いに対して少しでも説得的な結論を組み立てていく現実の意思決定そのものです。
そして同時に、きっとそのプロセスは、「競技ディベート」として用意された空間に限られるものではありません。ディベートをしていない友達や同僚とだって、家に集まった「酔人」たちとだって、きっと同じように展開できるはず。実際ディベーターって、試合以外の場所でも延々と議論をするのが好きな人が多い気がしますよね。南海先生たちのように、違う意見を言い合って吟味し合うプロセス自体を愛せるようになれるのがディベートのひとつの魅力なのかもしれません。
そして、ディベートのコミュニティにおいても、ひとつの形のディベートだけに拘らず、「議論文化の普及」に資する、よりディベート空間の”外”とも接続したプログラムを提供すべきなのではないか。そんなことも、あわせてふと考えました。
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さて、この話は私個人の考えですが、実はCoDAとしても、そんなコンテンツを提供できないかと目下準備中です。
より誰でも参加しやすく。
そして、よりディベート空間”外”にも開かれた。
そんな、ひとつの新しいディベートのスタイルをCoDAは今考えています。今年の5月、手探りながらもその第1回のプログラムをリリースする予定なので、興味のある方は是非プレスリリースにご注目を!
新年度もCoDAを、そしてこのCoDA PRESSをどうぞよろしくお願いします!
(引用箇所は中江兆民(1965)『三酔人経綸問答』 桑原 武夫・島田 虔次訳,岩波文庫より)
CoDA理事 佐久間弘明